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NPO法人アンチエイジングネットワーク理事長が、『アンチエイジングな日々』を
軽快な筆致でつづります。 どうぞお気軽にコメントをお寄せください。 |
1950年代はアメリカのもっとも栄えた時代である。
車は年々巨大化し、マクドナルドが誕生、画一だが格安の郊外のニュータウン,レビタウンが登場し、マスプロダクションのスケールメリットの上に、アメリカ社会は繁栄を謳歌する。 ノンフィクションライターのハルバースタムが著した、“the Fifties”(50年代)には、その頃の情景が生き生きと描かれている。 そして60年代に入ると、ベトナム戦争の泥沼にはまり、アメリカの威信は地に落ちるのだが。 その50年代、ニューヨークの首都オルバニーの大学病院には多数の日本人留学生が集まった。 多数といってもオルバニーは小さな田舎町である。最盛期でも留学生は10人を超えることはなかった。 ちょうどその頃人気を呼んでいた黒澤映画のの“七人の侍”をもじって、我々は“セブン・サムライ”と呼ばれていた。 そのセブン・サムライが昨夜、丸の内ホテルの料亭、椿寿に集結して、加賀料理を楽しみながら旧交を温めた。 何十年ぶりというメンバーもいた。みな相応に年輪を重ね、“街で突然出っくわしてもわからなかったかも”という発言も出たほどである。 だが、飲むほどに食べるほどに昔の面影が戻り、同じ釜の飯を食ったものたちの思い出話は尽きることがなかった。 今と違って一ドル360円、持ち出しできるのは20ドルまで。 インターン、レジデントの月給はせいぜい月100ドル前後。当時でも生活保護のレベルが300ドル以下とされていた。 そして一晩置きの当直。今日本で産婦人科医が過労の為職場を去っていくが、その二倍も三倍も忙しかったといったら失礼にあたるかもしれないが。 ただ違いはアメリカの場合、当時残された唯一の奴隷制度といわれたこのレジデントを無事勤め上げて専門医の資格を取得すれば、収入は一桁、二桁も上がるので、アメリカ人はぐっとこらえて、その期間を勤めあげる。 留学生はそのままアメリカで開業しようにも、移民法の高い、高い壁でさえぎられていた。 そして我々が帰国したとき待っているのは、レジデントとさして変わらないさえない待遇である。 ま、外国人留学生はチープレーバーとして歓迎されていたといえないことはないだろう。 それども我々が頑張れたのは、トレーニングが母国に比べはるかに充実していたからである。 しかも敗戦直後の日本の医学は、20年は遅れていた。 今学生でも自由に外国旅行を楽しみ、若い研究者が世界的な業績を上げる時代になり、感無量である。
by n_shioya
| 2007-10-13 23:59
| コーヒーブレーク
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塩谷信幸
1931年生まれ
東京大学医学部卒業 北里大学名誉教授 北里研究所病院形成外科・美容外科客員部長 AACクリニック銀座 名誉院長 NPO法人アンチエイジングネットワーク理事長 見た目のアンチエイジング研究会代表世話人 東京米軍病院でのインターン修了後、1956年フルブライト留学生としてアメリカに渡り、オルバニー大学で外科を学ぶうちに形成外科に魅了される。数年の修業の後、外科および形成外科の専門医の資格を取得。 1964年に帰国後、東京大学形成外科勤務を経て、1968年より横浜市立大学形成外科講師。1973年より北里大学形成外科教授。 1996年に定年退職後も、国際形成外科学会副理事長、日本美容外科学会理事として、形成外科、美容外科の発展に尽力している。 現在は、北里研究所病院美容医学センター、AACクリニック銀座において診療・研究に従事している。 >>アンチエイジングネットワーク >>NPO法人創傷治癒センター >>医療崩壊 >> 過去のブログはこちら(2005年5月26日~2006年5月26日)
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